私、中学と高校は三重県の四日市でした。もうかれこれ30年ぐらい前になるけど、高校の初めての同窓会が四日市であり、東京に住んでいる友達と誘い合って行ってみたのでした。
なぜでしょうねぇ、とても緊張しました。1人ではきっと行けませんでしたね。高校を卒業してからの年月を、私は私なりに真面目に重ねてきたと思っていましたけど、同級生たちと気持ちよく話が交わせる自分である自信はありませんでした。
大学卒業と同時に週刊誌の表紙の絵を描く仕事をもらえ、一応イラストレーターとしてご飯を食べてきましたけど、人から見たら趣味の延長に見えなくもないお絵描き仕事ですから、みんなと違う価値観が身についていて、だからそういう場に合う自分ではないのじゃないかと思っていたので、自信がない。きっと普通の主婦におさまっていたら堂々と出席できた気がします。
でもその時はまだ若かったから、みーんな若かったからわいわいさわいで、元気でね、またいつかねと別れをして、あまり印象深いこともなかったけど嫌なこともなく同窓会ってこんなことなんだと思って帰ってきたのでした。
それから年月が流れて、東京近辺に住んでいる人たちでの同窓会がありました。40歳は超えていたころと思います。40歳を超えた顔さげて高校の同窓生に会うというのは、かなり勇気がいるものです。それぞれの年月をそれぞれ、まったく別なうめ方をしてきているわけで、それをとびこえ高校時代の顔ぶれとして会うんですから。
着るものを慎重に選んだつもりだったけど、なにしろ私の職業ですから地味で、その上性格も地味ときていますので、他の人の華やかさに圧倒されているうちに散会になりました。二次会なるものに誘われもせず。その時はなあんだ同窓会ってこんなさっぱりしたものなのかと思ったのでした。
数年して今度は東京近辺に住む中学の同窓生の会がありました。
私の世代の中学時代というのは、特に公立学校の場合は、親の生活がいろいろで、だから高校に進学できなかった人もいました。中学3年の3学期は就職組は学校に行かず就職先で働くことになっていたそうです。進学組の同級生たちがまだ3学期をやっているのに、自分は学校と縁が切れていることがどんなに寂しかったかと、おやじ顔が東京の有名私立大学に進んだ髪が薄くなったおやじにうったえていました。だから自分の息子を大学院まで通わせてる。どうだ、うちの息子は大学院生なんだぞって。おやじ顔は鼻の穴をふくらませていっていたけれど、髪の薄いおやじはどう相槌うっていいのか困っていましたっけ。
当時の中学生の顔は子供顔でした。男の子にはまだひげもないか、あっても産毛がちょいと濃いぐらい。女の子は男の子よりませていますが、それでもぽっちゃりふくらんでいました。青年時代や娘盛りの顔を知らず、おやじとおばさん顔になったのに会うのですからお互い面喰らいます。それで子供顔が思い出せない人もいるのです。だれだったかわからないのです。子供顔さえ思い出せたら、あのころのこといろいろ話せるのに、思い出せないと声もかけられないのです。だから私は身の置きどころのない思いをしました。また昔をよく知っていて顔つきがあまり変わっていない人もいたけれど、話しかけるきっかけを見つけられなくて、困ってしまった。
とりあえず、しゃしゃり出てお元気ねとかどうしていらっしゃるのとか声かければいいものを。普段もできないことは、急にはできないのです。あの人の胸に光っている大粒のネックレスが昔も今も私はあなたとは違うのと私を拒否しているとか、思ったりもしたし。私は頑張って黒のぴかぴかのベルベットのコートジャケットを着て行ったのですが、部屋の中でもコートを着ていると思われて、クロークがあちらにあるわよといわれたりして、もうほとんどそこに居場所がなかったのでした。私ぐらい中学、高校の同窓生に対して、自信のない人もいないんじゃないかと思うのです。
ようやく会がお開きになって、じゃあと早々に帰り支度。どの人もなつかしさを分かち合えず、だから名残惜しいなんてちょっとも思わず。これは自分のせい、普通の中年とは違う生活をしているせいと、思い上がった思い抱えてまだ会場に残っている人影を振り返ってみれば、大粒のネックレスの上に、たっぷりした毛皮のコートをはおろうとしている人が目に入って、そうだ年をとってからの同窓会では、きれいもいいけど若く見えるもいいけど、お金持ちがいちばん格好いいと思ったのでした。
同窓会に出てごらんなさい。45歳以上になって同窓会に出てごらんなさい。どの顔も面影がないほど年くった顔しているの。派手な化粧に年齢が透かし彫りのような人もいるし。きれいに年をとるのはなかなかむつかしいことを知るのです。だったらやっぱり……と思う。