机の上に置いた紙に、鉛筆や筆で書いたり描いたりする手を使う仕事をしています。右手で描いて左手は紙がずれないように、指先にちょっと力を入れて紙の端に置いています。
ほとんど毎日そうしていますから、毎日手の甲や指が目の中に入ってきます。
私は机の前に座って年をとってきました。いつだったか友達に、こんなふうに年をとっていくのはつまらないことだといいましたら、なにしてても年はとるといいました。そうだなと思って以来、不満にも疑問にも思わず座り続けています。
その友達は10年以上もニューヨークに住んでいたし、ジャマイカやペルーやメキシコやカンボジアにも旅していました。たーくさん珍しいものを見、私よりはるかに足を使いました。
そうやっててもやっぱり私と同じように1年に1つ年をとりました。でも手は私より年をとっていないのです。私会う度にこっそりその人の手を見ているのです。しわも節もあるけどほっそりしていて若々しいのです。
私の手はどの友達の手よりも年をとっています。ぶくぶくしていてしわが多くて節くれだっています。恥ずかしいくらい。
でも若い時は、従姉妹に手美人といわれていました。ほっそりしていてぬるっと光っていて、爪は細長くてうぬぼれ爪なんてこともいわれていたのです。いわれると気になります。そうか私の手は少なくとも従姉妹よりきれいなんだって。ちょっとうれしいことでした。
私の外形の中でいちばんきれいだったと思います。そんなこというと、うそつきと今の手を知っている人にいわれそうですが、本当です。
保護すればよかったのです。ケアすればよかったのです。せっかくどこよりもきれいだったんだから、できるだけきれいを保つ努力をすればよかったのです。
でも私は面倒なことができないのです。それにせっかく使うようにできている手を使わない手はないって。
生まれつきいい顔だちとほっそりしたスタイルで、今でもボーイフレンドとお酒を飲んで色っぽく酔えるもう1人の友達の、つるりとしてピカピカして小さくほっそりした手、きっと私とは使い方が違うと思う。
どんなによい包丁も使い方です。乱暴に使えばさびもするし刃もこぼれます。私の手は使い方が荒かったと思うのです。それに手入れなし。かまわなかった。
机の前で年とったのにどうして? と思われますよね。
私家事が趣味みたいなのです。朝早くに起きて台所仕事と掃除をします。夕方仕事場からもどると夕食の用意。土曜日曜は普段しきれないところの掃除をします。私台所のガス台とか流しとか、鍋やかんとかをみがくの嫌じゃないんです。だから冬は指先にひび割れができて、鉛筆持つのも痛いことがあるぐらい。で、冬はバンドエイドが欠かせません。かさかさになってひび割れができてようやっとハンドクリームをぬるのです。
そんなふうに日を重ね、その日が月になって、その月も重なって1年になり年も重ねてしわしわ。
私の手がかなり荒れて見える年になったころ、30代の若い女性と親しくなりました。彼女は造形作家でした。主に土で作品をつくっていました。彼女の手は私以上に荒れていました。節くれだって尋常じゃありませんでした。指の関節なんか曲がったまんまでした。きびしい手。
そのころドイツ人の彫刻家の女性とも知り合いになりましたが、彼女の手も年上の私以上にごつごつしていました。
使えば節もできるししわもできます。あたりまえのことです。
2人の作家の手を見て以来、私は自分の手でもいいと思うようになりました。もうきれいな手の同年代をうらやましいと思わなくなっていました。
でもでも着物を着ると手の様子が目立ちます。この時ばっかりはなさけない。