今日のわたし
年月を重ねてみれば

 私の母は87歳(2001年某月某日)です。やせていて小さくてしわしわのおばあさん。でも気はしっかりしているので、外ではしゃんとしているみたいです。
 私は母をうとんじてきました。中学2年まで、おばさんと呼んでいた事情がありましたから、お母さんと呼べません。私に子供ができ、子供といっしょにおばあさんと呼ぶようになって、ほっとしたことを覚えています。
 母は私を育てませんでしたので、私に対して負い目があったのだと思います。
 まわりの者に、母が私にすごーく気を遣っているといわれました。それがまたわずらわしいのでした。
 中学2年から高校1年まで一緒に暮らしましたが、2年、3年はよその家に下宿したりアパート暮らししたりして、母から逃げました。高校を卒業すると、東京で浪人生活と大学生活をし、東京で仕事を見つけましたから、子供として母と暮らしたのは3年ぐらいでした。それなのに、結婚して子供ができたからといって、子守に東京に出てきてもらったのは、一方的に私の都合で、母の老後の計画をおじゃんにさせてのことでした。母はいくらでも嫌だといえたはずでしたが、負い目が決心させたのだと思います。
 家を建てさせて、家事と子守(子育て)をさせて、子供が母の手にあまる年齢になるまで、さんざん世話をさせました。
 家を改装した時、母の住まいを別にし(小規模の二世帯住宅)、これからは好きなだけ寝て、好きなものを食べて、好きな所に出かけてよいと突き放したのでした。
 私は手にあまる息子のことでいっぱいでしたから、母のことは考えませんでした。幸いよっかかったり頼ったりする性格じゃなかったので、71歳になっていた母は生け花を習い、踊りを習い、地域のお年寄りたちと交流を始めました。みなさんと旅行にも行くようになりました。地味な性格と思っていたのでしたが、ずいぶん社交的だったのでした。やがて「今がいちばん幸せ」というのでした。それを聞いた時、初めて母のそれまでを思いました。二度結婚して二度離婚して、戦争を経験して、働いて一人で生きてきた母でした。
 80歳を過ぎたころ、腕を痛めたり、転んで足を悪くしたりして、入院しましたが、初めて私にわがままを見せました。私にだけはずーっとやさしかったし遠慮していましたから、あらためて母を考えました。
 この前もベッドから降りる時、テーブルにかかとを強く打ちつけたらしく、骨にひびが入りました。医者のすすめもあって家で治療することになりました。三度の食事の用意や身のまわりの世話は、働いている私でもなんとかやれました。家にいられたので、歩けなくても入院した時より元気でした。それがなによりよかったと思える私です。
 今はようやっと老人施設に遊びに行けるまでになり、週一回、木曜日の朝、私の通勤の車に乗せて施設に送ります。
 普段は朝と晩、母の様子をのぞいて、問題ないのを確認してやっています。
 母が死ぬまでは病気にもなれないし死ねないと思うのです。そうなのです。いつの間にか私も、母が行く老人施設に入れる年になっていました。
 きゃーっ私も老女というわけ!

ページトップ
第8話
第10話