白井版画工房を主宰する白井四子男さんです。“摺り師”になって40年。30年以上使っているエプロンにはインクの層ができていて貫禄があります。これは銅板のインクを手拭きしているところです。
白井さんのプロの仕事を拝見したい、「村上ラヂオ」の版画ができるまでを見学したいと訪ねた白井版画工房で、白井四子男(よしお)さんにいただいた名刺の肩書にはシンプルに「プリンター」とありました。
「一般には、プリンターと言っていますけれど、自分でしっくりくるのは手へんに習う、と書く“摺り師”なんです。ほとんど手を使ってやるのでね。特に銅版画の場合は、手の加減でひとつの版をいろいろに操作できるって感じがしているので」。
工房があるのは、都心のマンションの1階の一室。「紙もプレス機も版もブロックも。版画にかかわるものは何もかも重いので、上の階は底が抜けちゃうといけないからね」と白井さん。
版画は大きく二つの工程に分けられます。絵を描いて彫って版を作ることと、その版を使って紙などに刷ることです。“摺り師”の白井さんがうけもつのは、主にその後半。とはいえ仕事は何段階にも分かれ使用する道具もさまざま。白井さんはそのたびに工房の中を移動します。たとえば大橋から「版ができました。いついつ伺いたいのですが」と連絡が入るとまず最初にするのは、紙の準備です。何種類もある版画用の紙のストックの中からふさわしいものを選んで版のサイズにあわせて紙を手切りし、一度水にくぐらせて余分な水を切り、それを一晩ビニールに包んでおくのです。そうすると水分が「ぴったり中に入り込んで、紙がインクを吸いやすくなる」のだそう。約束の日に大橋が絵を彫った銅版を持って(からだによさそうな差し入れとともに)工房を訪ねると白井さんは何種類かのインクを調合、ゴムローラーを使って銅版全体に少しずつインクを載せ、詰めていきます。ローラーに加える力はわずか、そおっと何度も何度も銅版の上を行ったり来たり。そこまででもなんてきれいな作業なんだろうと見入っていましたが、白井さんのおっしゃる「手の加減」はここからが本番だったのです!
大きな体の白井さんが、9㎝×9.5㎝の小さな銅版を手に抱えてとりかかった作業はインクの「拭き取り」です。大橋の銅版画はドライポイントという手法で、銅版をニードルなどでひっかいて線を彫り、凹んだところにインクを詰めて圧をかけて紙に転写する凹版画の一種(木版画は凸版画)です。ローラーで載せたインクは銅版全体を覆っていますから、余分なインクを拭き取る必要があるのですが、その加減こそが“摺り師”の腕の見せどころ。それで版画のトーンが決定するのです。インクを残すか拭ききるか、残すならどこか、どれぐらいがいいのか。それによって、彫った線だけでなく、なにも描かれていないところにも気配が生まれます。
拭き取りはまず寒冷紗、次いでモスリンと2種類の布を使い、次に手で拭き取るのですが、手も親指の付け根と指先を使い分けます。布も手もほとんど銅版に触れるか触れないかという力加減、銅版の上では決して手を休めません。時には串や割り箸を動員して、なんどもなんども銅版を覗き込み確かめながら時間をかけて進めます。真っ黒に見えた銅版から次第に絵が浮かび上がってきました。
「はい、これぐらいで」。手の止めどころを見極めたら白井さん、プレス機の前へ移動します。プレス機のあらかじめ決めてある位置に銅版を置き、ここで軍手をはめました。「軍手は普通手を汚さないためにするでしょう。でも私は手がインクまみれだから、紙を汚さないために軍手をするんです」。ビニールから紙を取り出し、湿り具合を確認して銅版の上に載せ、フェルトを被せたらドラムを回して圧をかけます。インクの準備をはじめてから30分以上が経過、ようやく1枚摺りあがったようです。
紙をめくって「さあどうでしょう」と白井さん。ああ、紙に版画が、ブルテリアが現れました! 大橋が彫ったのは輪郭の線。他は何もほどこしていないはずですが、現れた版画は違います。線の外側はインクを残して黒っぽく、内側はインクをほぼ拭き取っているから白くなって、ブルテリアの表情が浮かび上がって迫ってきます。黒さも一様ではなく、濃淡に表情があります。白井さんのおっしゃる「手でする仕事」「手の加減」を垣間見ることができた瞬間でした。
摺りあがった版画紙の水分をとるときに使うベニヤ板と、重しのブロックです。これは重い!
これは吸い取り紙とロール紙を乾かす棚だそう。版画工房ならではの道具です。
紙が乾燥したかどうかは音で確かめる白井さん。「まだ湿気があるときはこんな音です」と手をぶらぶら。
「村上ラヂオ」の原版は、すべて紙に包まれナンバリングされて、「村上ラジオ」と書かれたお菓子の缶に保存されています。小さな銅版ですが、200枚以上となるとずっしり。
白井さんの仕事はまだ終わっていません。摺りあがった版画紙は湿った状態。しわが寄らないよう乾かさないといけません。そのためにまずは摺った版画の上下をロール紙ではさんで、さらにベニヤ板にはさみ、上から重石代わりのブロックを載せて押さえます。ロール紙、ベニヤ板は水分を吸っていますから毎日交換し、3、4日。版画紙を指で持って揺らし、乾いた音がしたらようやく1枚完成、となるのです。時間も手間も力も要る仕事です。
大橋は版画が摺りあがって、白井さんに「どう?」と聞かれる時がとても嬉しいそうです。実際はその後、ふたりの間で「もうちょっとここをこうして」と相談し合い、納得がいくまで試摺りを繰り返すこともあるといいます。一方白井さんが仕事をしていてよかったな、と思うのは「作家さんからオーケーが出た時」とのこと。お互いとてもシンプルです。納得のいった1枚はプリンターズプルーフ(p.p.)として版画の原版とともに白井さんの手元に保管されます。増し摺りの依頼があると、原版を取り出し、p.p.を見ながら最初から作業を繰り返します。